貞彦編〔33〕

 当時を振り返るとあたしがなぜ、心が充実していたのか、そこも思い出す。あたしは1998年からこの父が出版した2003年の五年間、世紀末思想を考慮しエッセイを書きあげていたのです。五年半、原稿用紙で8000枚ものエッセイに邁進出来たのもその頃、自分の中に世紀末と新世紀構想があった。父の出版がそれに花を添えてその後の要塞になる。人は本を出版して、それで終わりなのか?それともあとがあるのか?あたしは半ばユーザーではありながら父を達観していたのです。なぜなら自費〔慈悲〕出版の性〔さが〕をすでに見ていた。心のありようは恐らく、次のような思いがあったでしょう、父の願いです。誰ぞ、学識のある人からいいな!!が帯が貰えないか?それともマスコミ人でもいい、ちょっとした感想でもいい、推薦が得られないだろうか?そういう色気が父に見えたけどあたしはあえて訊きません。図星が多かった娘。父の心はあたしが生まれて対面した時からうっすら見えていた。高名な人に憧れ自身の功名心も強く、美しいものが大好き、かよわいものにも惹かれる父は正統派と言っていいでしょう。実はその対角線上にいないとまず作家として落ちぶれてしまうだろう・・・があたしに点灯していたこと。作家と言うスタンスに置かれしかも認められてしまうといいものから段々遠ざかってしまう・・・えてして作家の傾向とはそうではないのか?認められても、邁進している作家なら又違うけども。こうしてあたしの世論的折衝は続行するのです。