決定権を誰かが持っている

 苛められ、そこで自分を見失うのはもっとも危険。自分も悪かった・・・そういう自分を認めてしまうっていうのは絶対いけません。弱いのは人間としての本当の性です。弱さがあるからこそ、発奮もある。気がいも光る。いちがいに自分の非を認めないこと。僕にも要因あったんだ、なんて、いけません。私は苛めにも段階があると思う。相手側の誰が首謀者なのか?これはたいがいハッキリしている。年代が低くなるごと、その様相には開きが出て来る。大人の社会の苛めはそこが見えにくくなっている。誰が指示したのか?暗黙の了解域だ。この存在が大きい。しかし子供の世界はまだ救われる。誰が指示したか?を言及出来る利発な子供が目撃者としている。正義力と称しておこう。このことが物事の方向性を決めて行く。担任はいい家の子供にばかり配慮では良くない。逆に反対の姿が求められます。私は小六の頃、貧しい家の子供の状況を隈なく観て自分なら?って提起しました。父親は飲んだくれ、そして母親も必死で働くけど、家の中は子沢山でみんながひもじい思いをしている。しかしどこか、今とは違う。今は大人がわからないよう苛めを牽引している。後姿をミラーで映して再度確認しましょう。