苛めの現場を一方的に総括出来ない

物を壊したり、焼いたり、そういう事情には必ずいかんともし難い内包は見られその行為自体はとんでもないことで、確かに親の形見を燃やしてしまおうなど、センセーショナル以外の何物でもない。しかし子供心にも私は許すことが出来たのです。それは、いちかばちかに出た母の至極、感情的な行いに賛同するのではなく、この時点で母が何を乗り越えようとしていたか?そこまで及べば納得もあるのです。お琴は何も知らずにただ、壊されてマキなって五右衛門風呂の火になったのではないということです。人柱になってでも、キミは娘ミチ子に戦後を歩いていって欲しいとそう願ったのではないでしょうか。穿った見方をすれば、母はこの一瞬で人格のすべてを周囲から暫定され、ろくな人間ではない!!と見切りを付けられ、それによって、母はどこかで一服したのでは?と子供ながらにも完結する。誰も母に対して、いい母親になれよ!!などとは言ってないのに、母はみずから家風を読み取りそこで逆らう自分を表明した。そしてそのことをキミも許諾せざるをえなかった・・・ということです。人にはそれぞれプライドがあって、そこまでは、母も戦前戦中のそれを維持していたと私は見ます。しかしお琴は灰になって母に新しい人生の幕開けを約束した。母をいちがいに責められない、そして苛めの内訳もこれに酷似している。個々の物事に深淵はあるということです。