嫌なことを全部いじめに取る。これがもっとも危険。

 自分が受けたことが苛めに相当なのか、そうでないかはすぐ分かる。自分だけで決めるのは愚かだ。第三者はどういう立ち位置にあるかというと中立、想像を絶する段階なのなら、苛めは酷いとすぐにも認定付くだろう。しかし何人か仲良しグループが出来てその中に入り辛いなど、初期の段階では難しい。言葉の綾があるからで向こうも手練手管に言い訳する。君が交流出来ない人間なだけだと、逆噴射を掛けてくるかもしれない。そこで優しい人間、純粋な人間が心を病むというケースがほとんどだろう。集団で強くなる人間もいることを覚えておこう。そういう時は一匹オオカミの人に声を掛けるといい。こんな友好的な私でも小学校高学年になると周囲の目は厳しかった。人のことを本当に考えているのか?とかリーダーとして一人前なのか?大人になるごとに周囲の査定は入る。しかしまだ、小学校高学年はどこか稚拙で可愛い。当時私は余り目立たない生徒、クラスで勉強がそれ程抜きん出てはいない生徒によく声を掛けた。その素朴なキャラが持つ雰囲気に癒される。きゃぴきゃぴはいつか飽きられる。いじめている人間たちは主にきゃぴきゃぴしている派閥。目立たない大人しいグループには苛めの本体がないといっても過言ではない。