貞彦編〔182〕

 先生に教育熱を見た・・・といっても過言ではない。それはかつて母がしゃかりきになって植え付けていこうとしていたものとは別の・・・なんて言ったらいいのかなあ。母が♪や曲調に拘って指使いを鍵盤の上で教えていたときとは又違う、もっとグレード高い心の教育だったのでは?と回想する。あたしになって欲しい”人物像”があったからこそ、彼の言論は高まっていったのでは?このままでは君は挫折への道を歩くしかない・・・ってしょっちゅうアドバイス貰っていたからです。しかし発表拒否はその先生が担任の三月まで続行します。こうと決めたらあたしに妥協は全くなかった。今思えば子供なりの、生徒なりの気骨だったかも・・・って。むしろ目を引くべきはあたしはその頃、真剣にバレーボールの選手になりたかったこと、サインはVに洗脳されて夢に出てくるのは中山仁。いいでしょ!?他に目がいくものが存在したことで、そこまで先生とのバトルで落ち込むことはなく、しかし、成績は三百人中、五十番外まで急降下。一年のときは十番内でずっといたので両親はめっちゃ心配します。このときは意外なくらい自分では落ち着いていた。文人になろうとか、そしてシンガーソングライターになろう!!って思っている人間って結構、心に幅がある。いつも頭に描いているのは創作です。スポーツ&作曲家を夢見て、教室の自分の席に座わるごく平凡な一少女だった。この先生の受け持ちのときの東中文化祭は大活況でした。