貞彦編〔21〕

 戦争に出征し負けて捕虜になり、それでも、生きて帰れるだけでも希少なこと・・・それに上乗せして何かを望むなど、当時の庶民には考えられず、日本そのものがどうすればいいのか?悩みながら考えあぐねながら日々生きることが精一杯。正しく死にもの狂いという言葉がピッタリだったでしょう。三月です。1946年の三月に父はようやく台湾から復員し祖国の地を踏むのですが、そこが鹿児島だったことは驚きです。まさか・・・そのとき、鹿児島出身の母との出会いがあるなど想像は出来ない。父は日本の変わり果てたさまを見ながら自分が生き残った意味について考えたと思うのです。しかしそれはまず家に辿り着くんだ・・・っていう気持ちを達成することから始まる。タヤリンがどんな気持ちで自分のことを待っていてくれるのか・・・そこは両者以心伝心だったでしょう。タヤリンは諦めも半分あったにせよ、生きて帰ることにも充分希望は持っていた。復員して帰る当時のニュースなど新聞やラジオ、八ミリで伝えていたからです。しかし肝心のテレビがまだないのです。考えてみるとテレビという神のような電気製品があるのとないのとでは、全然世界観が違うを改めて知らされる。テレビジョンという驚異的な製品です。あたしが四歳の頃、母が教職を辞めた退職金で白黒テレビを購入は後で聞きました。最初見た記憶はお風呂屋さんでした。アパートから銭湯に通っていたのです。父はあたしを男風呂に連れていき、時々あたしは母と女風呂に行く。カワリバンコって奴です。あたしは男の風呂に連れて行かれる時には緊張します。みんなが父よりも強そうな方ばかり。女風呂でも緊張します。女は、のべつ間もなくおしゃべり。庶民の戦後のありようは銭湯から発祥したと言っても過言ではない。母は寡黙にそこで湯に浸かる。お風呂屋さんが大好きだったのです。